子をあやすは親の役目

近付いてくる足音に警戒する事も無く、そのまま部屋の中へ戻っていった比古であったが、心なしか速い足取りのその人物に違和感を持ち振り返る。
思いの外近距離にあった姿を見止める暇も無く抱き締められ、構えを取らなかった体が一歩後ずさる。

「離れろ。殺すぞ」

最早日常会話と化したその科白に臆する男ではない。
そうと分かっている比古も、怯えさせる為に吐いたつもりではない。
いつもならば、聞きたくも無い言葉を二、三掛けてくるこの男が、何も云わずにこうして抱きついてくるのには理由があるのだろうと踏んでの事だ。
だがいかなる理由があるにせよ、男に抱きつかれて気分のいい事など比古には一つも無い。
ましてや三十を軽く超えた男二人が、だ。
離れる気配を見せないのならば自力で引き剥がそうと、両の腕を動かそうとした時。

「斎藤…?」

逆に力を篭められ少し驚く。
体格の差はあれど、常人離れした腕力で二寸程度しか違わない斎藤に抱き締められては、身動きが困難になる。
肩口に埋めていた顔がやっと上げられたかと思うと、そのまま唇を塞がれた。
短いが何度も続くそれを、やはり何度も受ける比古。
漸く見えた表情にいつにない幼さと焦りを感じ愈々訝しむ。

「…どうした」

自分でも意外な程に落ち着いた声に驚くと共に、ひどく懐かしさを感じた。
いつかの己のように、子供を相手にしているようだ。
そう、正に今比古を抱きしめている男は、子供以外の何者でもなかった。
甘えるように額を押し付け、背に回した手で外套を強く掴む姿は正直……

「気色悪い。殺すぞ」

二度目の忠告はやはり、斎藤の耳を通過して消え去った。
だが腕の力を緩められほっとする。
その流れで離れようとするとまた掴んでくるので、諦めてそのまま話を聞くことにした。
入口で突っ立ったままの姿は些か滑稽だ。

「……夢を見た」

ボソリと呟かれた声はしかし、何の遮りもなく耳に届いた。無言で続きを促す。

「俺が……お前を殺した…この刀で、この手で……」

込められる力が苦しかったが振りほどく事はしない。
ただ、笑い飛ばす事は出来る。
比古が声を上げて笑う様など初めて見た斎藤は、突然の事に目を瞠って驚いた。
同時に怒りも込み上げてくる。

「人が気落ちしてる時に何故笑う…」
「お前は十も行かねぇガキか」

言葉を話すのも苦しそうな状態で、呼吸を整え落ち着くのを待った。
その際腕も解かれたが、互いに距離を離そうとはしない。

「ガキ、だと……?」
「たかが夢で人を殺めたぐらいで、壬生の狼が聞いて呆れるってもんだ」

確かにそうだ。
自分は過去、数え切れない程の人間を斬った。
その中には、隊規を犯したかつての仲間も大勢いた。
今だって、私利私欲に塗れた薄汚い政治家をはじめとした暗殺稼業を担っている。
血濡れた己の手に慣れてもう久しいというのに。

袈裟掛けに刃が走る。確実に命を奪う深さ。噴き出す生温い血を、避ける事は出来なかった。
その時初めて気付いたのだ。比古を斬った事に。
朱い着物が鮮血で染められていく。
血は、こんなにも黒い色だったか?
初めて人を殺めた日、こんなにも恐怖を感じたか?
この男は、こんなにも、冷たかったか…──?

血溜まりの中膝を付く。抱き抱える身体は重く、鉛のようだった。
どこが傷口かも分からない真っ赤な胸をきつく抱き締める。
この男を失う事だけは、堪えられなかった。

『 逝かないでくれ… 』

お前を殺した俺を、一緒に殺してほしかった。

黙ってしまった斎藤の曇った顔に益々可笑しさが込み上げ、比古は漸く斎藤の腕から逃れるとプッと噴き出しながら家に入り外套を脱ぐ。
隙を突かれた斎藤の眉間に深い皺が刻まれる。夢で見た、あの朱い長着だ。
知ってか知らずか、背を見せていた比古が笑顔を浮かべながらこちらへ振り返る。

「それで?」

少し離れた正面に立った比古は、軽く両腕を広げた。
まるで自分の身体を見ろというような仕種に、斎藤は比古の言わんとしている事を瞬時に理解する。

「それで、俺は死んだか?」

笑い、呆れたような溜息を吐きつつ再び外套を羽織る。

「生憎、お前に殺されてやる義理なんざ更々ねぇよ。もし万が一、そんな事が起こったとしたら、その時は―――……」

斎藤は鼻の奥がジンとするのを感じた。
相変わらず眉間の皺は緩む事を知らないが、それでも怒りとは全く違う、温かいものを与えられた気がしてならない。
言葉の続きを待たずに、一度、二度、頷く。何を言うのか、何を言ってくれるのかはもう分かっていた。
自分より遥かにぶっきら棒で、神や仏より偉そうなこの男は、それでいて時に最大の優しさで包み込んでくれるのだ。
本人に言えばそれこそ叩きのめされるに違いないが。
不安や恐怖とは疾うに無縁で、縋る対象さえ不要だった自分は、意識が及ばぬ内に、こうして甘えられる相手を探していたのかも知れない。
泣いても、いいのだと。

「ま、そんな万が一なんて来ねぇから安心しな。俺はお前なんかに殺されたって、死んでやらねぇよ」

一転茶化すようないつもの笑みに変わり、つられて斎藤も口角を上げる。
ただの夢にあれほど落ち込んだのが嘘のような、清々しい気分だった。

「夢の中の俺も、“死んだ振り”しながら思ってるだろうぜ。『たまにはこんな間抜け面でも見とかねぇとな』ってよ」
「じゃあお返しに、イイ顔でも見せて貰おうか」
「フン、機嫌は治ったかよ、ガキ」


怖い夢を見た子供をあやすなど、昔幾度となく経験した比古にとっては容易い事であった。