思えば遠くへ来たもんだ





…………




(ん……?)




……ントントン…




(…………)




グツグツグツ…




(…………)









「比…古……?」
「ん?起きたか?もうすぐ朝飯出来っから、顔でも洗ってさっぱりしてこい」

寝起きの眼に飛び込んでくるのは、窓から入り込む朝日に照らされた、優しい笑顔を浮かべた比古。
火にかけられた鍋、湯気が立ち上る釜。
長閑な朝の匂いに、斎藤は穏やかに眼を細めた。

熱を共有してまどろみ、翌朝目が覚めると、比古が食事の仕度をしている。
信じられないが、何とも嬉しい光景ではないか。
まるで本当の夫婦のようだ。

斎藤は立ち上がり土間へ下りて、後ろから比古の腰に手を回し、項に口付けた。

「馬鹿、何しやがる」

擽ったそうに笑いながら少し身を竦め、作業の手を再開する。
振り払われないのをいい事に、斎藤は回した手を比古の大腿に這わせた。
それが中心に近付くにつれ、比古の体が強張る。

「‥こら、飯だって…言ってんだろっ…んっ‥」
「お前がこんな恰好なのが悪い」

長着は纏っているもののその下には何も着けられておらず、斎藤の手には比古のソレの形までもがはっきりと分かった。
強弱をつけて包み込み、比古の反応を見て楽しむ。
眉を下げ、頬は赤く、口からは艶を帯びた息が漏れ始める。

「今日はやけに可愛いな」
「っ‥火、消さね‥と…っ」

大きさを変えたソレに直に触れる。
既に絶頂が近い。

「その前に、一回出しとけ…」

耳に唇を寄せて囁くように言えば、比古の足の力が抜け、完全に身を委ねる形となる。
斎藤の手も速まり、比古の微かな悲鳴と共に白濁が放出され……───



「…………」

東京の自宅、早出用の別宅、そして比古の家。
見慣れた天井は幾つかあったが、今見えるのはその何れでもない、署の仮眠室のもの。
仮眠、と言っても時間を大分貰った為、何も気にする事なく深く眠った。

「……はぁ…」

今まであった感触も、体温も、吐息も、何もかもが途端に不確かなものへと変わっていく。
それが全て、夢であったのだと。

「…都合が良すぎる訳だ」

自分が知る彼は、あんな風に大人しく、されるがままになる筈がない。
行き過ぎる程の抵抗を受け、口喧嘩も交え、そうしてやっと観念するのだ。
そんな彼が愛おしいと思う反面、男としての夢も斎藤の中には存在していた。
腕で重い瞼の目を覆い、空気を大きく吸った。
口から一気に吐くと、その瞬間に気怠さが襲う。
ふと、下半身に違和感。

「………」

まだまだ枯れてない、という証拠か。
一人なのを幸いに処理を済まし仮眠室を出、同僚に怪しまれぬよう平静を装った。





だがその日の仕事中は、ずっと夢の事ばかりが頭を過ぎり難儀した。
油断すれば下が反応してしまう。
いつも以上に難しい顔をしている斎藤に、部下どころか通り掛かった上司でさえ足が震えた。

(あいつがあんな恰好で…料理…俺の為に…)

周りの恐怖を余所に、当の斎藤の頭の中からは既に仕事の内容が消え失せていた。
広げる資料に、夢の中の比古が映る。

「ふ、藤田警部補…」

夢と分かっていながら、いや、分かっているからこそ募る想い。

(…………よし)

「藤田警部補…あの…」

思い立ったが吉日と言わんばかりにさっさと資料をしまい、上司へ早退を申請するために部屋を出た。
今の斎藤の申し出は誰も断る術を持たないだろう。

「鼻血……」

「不可解な事が一つある」

所変わってここは京都のとある山奥。
隠遁生活を送るに絶好のこの場所に、眉間に皺を刻んだ男が一人居た。

「どうしてお前が此処に居る」

水を汲みに行った帰り、出掛け際には無かった姿がそこにあった。
小屋の入口を開けてみたり、薪が積んである後ろを覗いてみたりしながら、その少女は比古を待っていた。
声を掛けられると走り寄る。

「不可解とは失礼ね!何処行ってたのよ急ぎの用があるのに」

何故自分が怒られなければならないのかと疑問に思いながら、少女が握り締める手紙らしき物に目をやる。

「急ぎ?」

差し出されたそれを広げ、綴られた字を目で追う間もなく比古の顔が曇る。
聞かずとも、誰と分かるその一行。

「ね、何て書いてあったの?半日かからない便で届いたんだから急用なんでしょ?」
「…こんなくだらん用事でか…!」

怒りで破り捨てそうになるのを堪え操に押し付ける。
持ち上げた桶の水が大きく揺れたが、一滴も零れず部屋の中へと消えた。

「ちょっと師匠ー!…もうっ」

彼が怒っているのはいつもの事だと溜め息を一つ吐き、押し付けられた紙を見る。

(もうこれって見ちゃってもいいのよね)

ガサガサと皺を伸ばして中身を読む。
何度見ても、何処を見ても、そこに書かれているのはたった一行。

「…こりゃ師匠じゃなくても怒るわ」




「お前の用は済んだんだろ、早く帰れ」

蝋燭の明かりが照らす部屋の中で、比古は慣れた手つきで晩酌の準備。
操が入ってきても視線をやる事はなく、どかっと定位置に腰を下ろした。

「まだ終わってなーい!これとは別に添え状みたいなのもあったんだけど…」
「……何て」

これ以上時間がかかるとなると、操一人で夜道を帰らせる訳にもいかないなどと考えながら、トクトクと音を立てて酒を注ぐ。

「ちゃんと見届けろ、って。最初は何の事かさっぱりだったけど、さっきの手紙読んで意味が分かったわ」
「あの馬鹿の言いなりになぞ誰がなるか」

折角の酒も、全く味が感じられない。

「拒否したら緋村に関係ばらす、とも書いてあるわよ?」
「…………」

ひび割れた陶器の間から酒が滴り落ちる。
間もなく、全て崩れ去った。

「俺に脅しをかけるたぁいい度胸だあの野郎…!望み通り行ってやろうじゃねぇか…それで一発ぶん殴る…!!」

差出人の名は藤田五郎(斎藤一)。
比古に宛てた手紙の内容とは。



『俺の飯を作りに東京へ来い』

東京に着いても、比古の怒りは鎮まっていなかった。
目立ち過ぎるその出で立ちと、隠そうともしない怒気が相俟って、混雑するはずの港において比古の周りには誰一人として近付く者が居ない。

(船代は後で倍にして請求するとして…)

ぶん殴るという目的があるにしても、斎藤の為に遥々東京へ出て来たという事実に今更ながら納得がいかない。

(飯ぐらい勝手に食え!何で俺が出向かねぇといけねぇんだ)

理由が理由なだけにその怒りも一入だ。
怒る目線の先には、制服は違えど斎藤と同じ警官がいる。
道を尋ねる老婆に優しく対応し、深々と頭を下げられ巡察を再開する。
あいつもあぁやって人助けをしているのだろうかと一瞬脳裏を過ぎったが、似合わないとすぐに頭を振った。
と、自分も行き先を尋ねねばならないと気付く。
だがそこまでして行かなければならないかと言うと、比古としてはそうでもない。
此処まで来てしまったのに今更意地のつもりでもないが、やはり斎藤の為に自ら事を円滑に進めるような真似はし難かった。

(どう時間を潰すかだな)

当然の如く酒は持参しているし、不審がられても適当に配う術は持っている。
隔てるものがないその長身の目線で、辺りを軽く見渡した。

(何処か場所でも探して………)

…嫌なものを見た。
そんなあからさまな表情、且つ舌打ち。
なのにどこか嬉しくて、言う通りに此処へ来た事がその何倍も恥ずかしい。
実に、三月振りの再会。

「よう」

顔を背けている間にすぐ傍に来た斎藤からは、染み付いて慣れた筈の煙草の匂いが、更に濃いものとなって漂ってくる。
銘柄を変えた訳ではない。
自分が思っていた以上に、この男と離れていたのだ。

「迎えに来た」

煙草を挟む白い手袋も、たった三ヶ月でひどく懐かしい。
その口角を上げて笑う顔も。

「要らん世話だ」

だが懐かしむ気持ちよりも、今はその笑顔の意味が分かっていたたまれない。
顔を隠す事も出来ず、正面からこの羞恥と闘わねばならなかった。

「道が分からんだろう」
「人に聞きゃあ分かる」
「阿呆。俺がいるのに何で他の奴にお前を会わせねばならん」

表情こそ変わっていないが、その煙草の煙を吸う何気ない仕草が、少し苛ついた風に見える。
端から見れば、さながら態度の悪い警官と、それに尋問されている怪しい男の図、である。
そういう意味では斎藤も、きちんと人助けしているのかも知れない。
だが二人の威圧的な雰囲気に、斎藤と同職の警官さえ近付く事が出来ないでいる。

「俺の為に来たんだろう」

会話を聞いてしまえば、更に遠退くに違いない。

「…そうだ、お前の為に来てやったんだ」

絶対に否定すると思っていた所へ肯定する返事が降ってきて、斎藤の心臓は飛び上がらんばかりの勢いで高鳴った。
今回の計画の発端である、先日見た夢の再来かとおめでたい錯乱を起こしつつ、その幸せはほんの刹那で幕を閉じた。

「こんなに早くお前をぶん殴れるとはな」
「ぶん殴……、っ!!」

視界の下から繰り出された拳を、凄まじい殺気を感じて間一髪で避ける。
だが咥えていた煙草が、神速の拳によって短く切断された。
ひゅっと息が詰まる。

「当たったらどうする…!」
「当てる為にやってんだよっ」

突然勃発した警官と不審者の殴り合いに、遠巻きで見ていた人々は愈々逃げ出した。
巻き込まれれば死ぬ。

「てめぇの我が儘の為に何で俺が出向く必要があるっ!」
「俺とて暇じゃないんだ、お前が来た方が色々効率がいい」
「俺が暇だって言いてぇのか!飯ぐらい勝手に食ってればいいだろうが!!つまらん用事で俺を振り回すな!」
「現に来てるじゃないか貴様!俺を殴る為だけに来る方がよっぽどつまらん用事だ阿呆が!」
「大体俺を脅そうなんて百年早ぇんだよっ!」
「じゃあばらしてもいいんだな。俺は一向に構わん」

斎藤の顔面に減り込む筈の拳打が、その一寸前で止まる。
ゆっくりと下ろされたそれを、斎藤の手が掴んだ。

「此処で目立つと余計あいつらの耳に入る事になる。それでも構わんのなら続ければいい」

やはり嫌なのだろう、比古は腑に落ちないながらも大人しく斎藤の言に従う。
肩で息をしつつも、不良警官が怪しい男を捕らえたらしいその光景は、人々をこの上なく安心させた。

「本当に知られたくないんだな」
「当たり前だ。絶対ぇ面白がるに決まってる。お前が俺に何もしなくなれば、別に問題は無いんだがな」

強調して告げるも、相手にはそれほど伝わらなかったと見え、比古はそのまま半歩後ろを歩いていた。


潮風に靡く黒髪と、音を立てて波を打つ白外套。
京都の奥深い山の中以外で目にする事が出来ようとは、正直な所斎藤にも信じられなかった。
と同時に、えも言われぬ嬉しさが込み上げて、早く抱き締めてやろうと思った。
だがまだ三間以上も離れている内から目が合い、嫌な顔をされた上に舌打ちをされたような気がして思い止まった。
何だかんだ言いながら東京へ来ただけでも、愛は感じられるというものだ。
その証拠に、恥ずかしいのか何とも可愛らしい顔をしていた。

「…何だ」
「いや、お前と町を歩く事があるなんてな。しかも東京で」
「……ふん。てめぇで呼んどいて何言ってやがる」

警官と怪しい外套の男という組み合わせは随分目を引いたが、二人は停車場までの距離を何を気にするでもなく歩いた。
こういう時に神出鬼没な剣心組や、左之助の舎弟等が居ない事が奇跡に等しい。

明治の平均値を遥かに越える二人が斎藤の用意した馬車に乗り込むと、中は案の定窮屈だ。
しかしその窮屈を苦にしているのは比古だけで、やっと訪れた二人の空間に斎藤は口端を上げるばかりである。

「触んな欝陶しい」
「久し振りに会って触るなと言う方が無理だ」

狭い車内でささやかな攻防戦。
窓から見える、綺麗な遠くの景色を次々見逃し馬車は揺れる。
そうこうしている内に目的の場所まで着いたらしく、斎藤が御者に停まるよう指示する。
降りると、車内に篭ったむさ苦しい空気が浄化されたように生き返った気分になる。

そこには一軒の家が佇んでいた。

「此処は?町外れのようだが」

先程の港のような人通りはない。
賑わいを見せているという東京の様子も見つけ出せない。
見る限り、警察署や派出所の類でもない。

「まぁ大体…想像はつくがな…」

此処は斎藤が所有している家。言わば休息所である。

「署から近いんでな。家に帰らず此処へ寝に帰る事も多い」

屋根を見上げながら刀を腰に差し直す。

「こっちだ」

敷地内へ入って玄関の戸を開ける。
比古の家とはまた違った木の匂いが鼻を擽った。

「家族をこっちに住まわせりゃいいんじゃねぇのか」
「俺もそう思ったがな、考えてる間にお前に会った」
「……みなまで言うな」

寝に帰るだけの割に広く造ってあるという、無駄を好まない斎藤に対しての疑問は、呆れるような答えで返ってきた。
真面目に答えるその姿に、聞いている比古の方が逆に恥ずかしい。

「…………」

珍しく、あれから斎藤は煙草を吸っていない。
やり場のない手を、時折口元へ持っていっては何もせずに下ろす。
そんな仕草を短時間の間に何度も繰り返す斎藤に、比古は堪らず笑みを零す。

「…何だ」
「そんなに吸いたきゃ吸えばいいだろ」

癖に気付かれた事よりも、自分がそんな事をしていたという方に気まずさを覚える。
全くの無意識だった。
それに気付いたのだろう、比古はくくっと声を漏らす。

「…笑うな」
「笑いたくもなる」

主に断りなくさっさと上がる。陽が差して、幾つかの部屋は明るい。

「で?俺は握り飯でも作って帰りゃいいのか?」
「おい」
「何だ」

気が緩んでいる所で外套を軽く引き、二寸の差を埋める。
不意な事で抵抗なく下りてきたその顔と自分のそれを突き合わせた。

「吸ってもいいんだろ?」
「…そっちじゃねぇよ、馬鹿が」

重なる唇に、やはり銘柄は変わっていないと、比古は頭の隅で思った。

促されるまま此処へ辿り着いたが、何故いきなり自分を呼び寄せたのか、納得のいく理由を聞いていない。
斎藤がどれほど自分に入れ込んでいるのか知らないが、ただ飯を食いたいなら家に帰ればいい話だ。
比古でなければならない理由があるはずだと、不本意ではあったがそれを知る為に来たというのが実情。

「本当の理由を言え。答えによっちゃあ本気で殴り飛ばして帰る」

部屋に落ち着いた早々迫ってくる斎藤の頬を、口を覆うようにして掴み力を入れる。
本来ならムギュッとなって何すんだよーと笑って終わりなこの微笑ましい行為も、この二人にかかればそうも言っていられない。
既に斎藤の顎の関節と両奥歯がミシミシと不吉な音を発し、苦悶の表情が更に歪む。

「いう…、いう゛っ…!」

ちょっとした拷問である。
解放された顎を何度か鳴らし、話した。






「───夢…だと……?」

比古の呆気に取られた顔を見れるのも珍しい。
それ程までに斎藤の願いというのは自己中心的な、呆れた内容だったのだ。

「正夢にしないと悪いだろ」
「誰に対してだ」

手前勝手な奴であるとは重々分かっていたが、それでも、ただ会いたかったからと言われたならば寒気を起こす程度で許してやろうとは思っていた。
比古にとっての斎藤の存在とは、斎藤が思うより大きいのだ。
ある意味では剣心よりも。

「金」
「金?」
「明日帰る。金」

帰る、という言葉に斎藤がぴくりと眉を上げる。
勿論、そうはさせない。

「答えによっては殴ると言ったな」
「殴り飛ばして帰る、と言ったんだ」
「殴りたければ殴れ。それでお前が此処に居るなら、俺はいい」
「聞け」

何処までも自分の良いように事を運ぼうとする斎藤に呆れ返り、殴る気も徐々に失せていく。
しかし本当に斎藤が見た夢を正夢にしようとしているのなら、船代を貰わずとも本気で帰りたい。
彼の脳内に存在している自分は、自分ではない。
…少なくとも、今の自分では。

「…譲歩してやる」

譲歩、という比古の口からは聞き慣れない言葉。
それに多大な期待を寄せる斎藤。

「貴様が見た夢とやらの、その…こ、後半部分をしないなら、飯ぐらい作ってから帰ってやる」

飯を作れとは言ったものの、斎藤としてはその「後半部分」が重要だったのだが。
だが比古が此処へ残ってくれるというのだから、それに従う他はない。
機会を、窺う事にした。

「分かった」

一先ずの安心を得て、斎藤は新しい煙草を取り出した。
一方の比古も、とりあえず安堵の息を吐いた。

その後、斎藤は休憩を終えて再び仕事へと戻って行った。
僅かな休憩時間を割いてまで自分の為に動く斎藤に、危うくいい奴だと思いそうになった比古だったが、休憩時に自分の所へ来るのはいつもの事だったし、斎藤の我が儘で此処へ来たのだから今更そんな事は当たり前かと酒を脇に置いて目を閉じた。
長旅の疲れか、比古はそのまま深い眠りに就いた。


剣客として、男として、斎藤は涙が出そうな程嬉しかった。
比古が、寝ている。穏やかな寝息さえ聞こえる。
飯でも作っておいてくれたか、風呂でも沸かしておいてくれたかという僅かな期待と、一人で持参の酒をちびちびやっているのだろうという現実味のある想像をしていた斎藤だったが、帰ってみれば、その何れでもなかった。
近付いても、起きない。

(信用…されているって事だろうな)

横になり、ゆっくり上下する肩にひどく安心する。
斎藤は、なるべく音をたてないよう隣へ腰を下ろした。
比古の為に誂えた長着を持って。

(寝てる間に着替えさせたら、流石に起きるだろうな)

そんな事を考えながら比古をじっと観察していると、昼間の事を思い出す。
比古が此処に居るのは、斎藤が見た夢の後半部分を除外するという条件のためだ。
朝食を作っている比古。
優しい笑顔を見た自分は、堪らずそんな彼を抱く。
実際はそんな甘い雰囲気になる事は無いと踏んでいたが、それ以前にその行為自体が実行不可能になってしまった。
それが無くとも充分に幸せではあるのだが、そこは男。夢に夢を見たいのだ。

(……………)

───確か。
確かその夢の始まりは、前夜に身体を重ねた翌朝、という形ではなかったか。
行為後の色香が残る比古。
夢の中の自分は、そんな彼にも欲情した。

(…実現出来ないのは朝の色事だけであって…)

前夜のそれは、範囲ではない。
……とすれば。

斎藤の口角が上がると同時に、ムクムクとやる気も沸き上がった。
皺にならぬよう長着を置くと、横になる比古に早速覆い被さる。

起きない。

(意外にその信用度は高いと見た)

顔にかかる髪を除けても、結び目に手をかけても。
余程疲れていたのだろうか。
だが、段々と直に伝わる感触に比古の目元が震える。

「起きたか?」

返事はない。が、閉じられていた瞼から青い瞳が見えた。
間もなく、金色のそれと合わさる。

「……何してんだ」
「寝込み。襲ってるんだ」
「…しない約束じゃなかったか…?」
「それは「後半部分」だろう。俺がやってんのは、「前半部分」だ」

屁理屈を…と言いかけた口を塞ぐ。
すぐに離されても、その力は微々たるもので。

「応じてくれるよな?」

手を上げないところから、そんな事は分かっているのだが、合意の言葉を言わせたくなる。
そういう気にさせる。

「嵌められたと思わなくていい。俺も今さっき気付いた」
「……だが何かしら理由を付けて行動するつもりだったんだろう…」

視界に入った長着と帯を見て感づく。

「当たり前だ。俺が何もせずお前を帰すと思うか?」

呆れた表情も、寝起きのそれと微笑が織り混ざってすぐに消える。
溜め息だけは存在した。

「今度は俺の願いを叶えろよ…」
「分かってる」

合意の腕を背に感じながら、久方振りの逢瀬を…






心地の良い人肌の温かみが、いつの間にか消えていた。
情事直後の気怠さの中で敷いた蒲団には自分しか居ない。
と、すれば。

「何だ、案外早く起きやがる。踏み付けて起こしてやろうと思ったんだがな」

米が炊き上がる温かい匂いに誘われるように、何やら液体が乾いて汚れた皺くちゃの二人分の衣服を飛び越え部屋を移動すると、斎藤の目に飛び込んできたのは新妻・比古。

「もうすぐ朝飯出来っから、顔でも洗ってさっぱりしてこい」

…基、約束を守り朝餉の準備をしている比古の姿だった。
昨日、襲う為の口実も含めた、斎藤が比古用に誂えた長着を着ている。
深く落ち着いた木賊色に、桔梗色の帯がよく合い、引き締まった印象を与える。
京都では見ない普段着姿の比古に、斎藤は言葉も無く見惚れた。
比古が夢と同じ台詞を言ったとは気付かずに。

「…おい?」

夢と同じく、下帯を付けていない事には気付いたのに。

「何処見てやがるッ!」
「ッッ!!……やっぱりもう一回…ぐっ!!」
「火ぃ付いた薪食わせるぞ…」

二度殴られた頭を押さえ、且つ少々前屈みになりながら斎藤はそこを後にした。




顔を洗って再び戻ってきた時には、もう自分の為の朝餉の用意がしてあった。
妻・時尾が作ってくれるような、見目も鮮やかで繊細さを感じる出来ではなく、簡単で大雑巴なおかず。
漬物は前のうちに斎藤が持ち込んだもの。
味噌汁と焼き魚、しかし自分が作るよりは、遥かにまともな形であった。

「男子厨房に入らず、とは言ってられねぇ生活だったからな」

何故ここまで出来る、と聞けばそんな答えが返ってきて納得する。
同時に、比古が剣心と二人で過ごしていた事を思い勝手に妬いた。
味噌汁の匂いとご飯のそれが合わされば、もう後は手が自ずと動く。

「いただきます」
「おう、心して食え」

いつも飲んでいる味と当然違ったが、それは斎藤の口に合った。
知れず顔が綻ぶ。

「…美味い」

正直に伝えれば、比古が驚いたように眉を上げる。
だがそれも一瞬の事で、すぐに当然だといつもの笑みが返された。

「そう言わせてやろうと思って作ってやったんだからな」

これで我が儘はきいてやった、と言わんばかりに比古は気持ち良さそうに伸びをした。


当初下心のみで東京まで比古を呼び出した斎藤だったが、こうして自分の為の朝食を作って貰った事に想像以上の幸福感を覚えた。
本気で比古と此処へ住むのもいいかも知れない、とか。

「あ、洗濯はお前がしろよ。汚したのはてめぇのせいだからな」
「…………」
「飯の後片付けもお前。俺は約束通り作ってやったんだからもうお役御免だろ?」
「少しは手伝…」
「今日は一日静養だ、俺は。腰痛ぇのに早起きして飯作ってやったんだ。感謝するんだな」

それを言われてしまうと反論出来ない斎藤である。

「風呂も沸かしとけ」

言って比古はもう一度寝直しに襖の奥へ消えた。
取り残された斎藤は比古の姿が見えなくなった事が少々不満だったが、それでも箸を休める事無く綺麗に平らげた。

「「嫁」の言う事もたまには聞いてやらんとな」
『誰が嫁だボケ!ぶっ殺されてぇか!』

奥から聞こえる声も気にせず、ズズズッと茶をすする。
飯を作る比古がこれ程そそるものかと、文字通り味を占めた斎藤は不満を払拭して立ち上がる。
先ずは風呂を沸かして飯の片付け、洗濯が終わったらその次は昼飯か……

「昼飯は蕎麦にしろ」
『五月蝿ぇ自分で作れ!もう夢関係ねぇだろうが!』

甘い雰囲気は所詮夢の中だけか。
そう思うが、以前程の落胆は無い。


着物が乾いたら明日にでも比古は京都へ帰るだろう。
そしたらまた、折を見て呼び出す事にしよう。
その時は、下心と同じぐらい、料理の腕にも期待をして。